Our Love In War Time

音楽、映画、本と、生活について

5/25 疫病の鎮まりはじめた街で

緊急事態宣言下となってから、出勤は多くて週に1度となっている。別にテレワーク推奨の企業でも、それに向いた業務でもないのだが(研究なんて家でやるのに向かない業務の極地である)、会社が政府方針の「出勤7割削減」に愚直に従ってくれたおかげである。

 

前は毎日乗っていた中央線もご多分に漏れず、乗る人はまばらだ。前は、満員電車とは言わないまでもぎゅうぎゅうだったのに。実はみんな幻だったんじゃないか、なんてことを思う。

 

僕自身の方は、本当は海外に行く予定がいくつか入っていたけれどすべて延期になった(延期にしたところで、行く目処がいつ立つんだ?とは思うけど)。なので目下非常に暇なので出勤してまでやることがほとんどない、から家で事務仕事や勉強(関連論文探して読む)をやって日がな過ごしている。いや、日がな、は嘘だな。子どもが起きてる時間以外は。

妻はもともとフルリモートに近いのであまり関係ないかもしれないが、いちばんは娘である。緊急事態宣言発令により、保育園は登園自粛(という名の実質ほぼ閉園)、娘にとってはパパもママも家にいるがお友だちには会えないし、お出かけも近所の公園くらいだ、本当はもっといろんな、どこにだって連れていってあげたいが。

 

ひとはひとといると幸せを感じるとともに疲弊もする(「幸せ」も人間の体にとってはストレスなのだそうだ)。僕は一言多い上に話し方が変なので、妻にはいつも苦労をかけている。

 

音楽も映画もずいぶんと鎮まってしまった。永らく開店休業状態のバンド(音源を録音した直後に、メンバーが抜けてしまったのだ)も態勢を立てなおしつつあったところでこの状態なので、スタジオにも満足に入らないので目下宅録集団である(メンバーみんな宅録できるのが唯一の救いだ)。所属している合唱団も、初のイベントは中止になってしまった。この中でもなにかできることを、と思って模索してはいるが…

映画も映画館では長いこと見ていないな、この数年行く回数がずいぶんと減ってしまったのもあるけれど。吉祥寺にできたUPLINKにも、結局まだ行けていない。

 

もうすぐ緊急事態宣言は解除されるらしいが、疫病が鎮まったわけではない、「新しい生活様式」ハッキリ言ってクソだな、と思うけど、医療業界の端くれにいる人間からみてもこのウィルスが終息の流れを見せるのは相当先だと思う、少なくとも年内は無理だろう、と思う。先行きの見えない中で、一時的にでもくらしの形を変えていくことは避けられないとは思う。思うし、たぶん従うだろうけど、絶対に賛成してたまるかという気持ちもずっと持ち続ける、と思う。

 

僕はずっと昔、世界の終わりがきてほしかった。でも、いつからか終わりは来ない、来たとしても僕自身の終わりが来る方が先だろう、と悟った。

地震が来ても、疫病が蔓延しても、友だちが亡くなっても、心を病んでから、すべてのものが薄ぼけた灰色に染まっていっても、それでも世界は変わらなかったし、もちろん終わることなんてこれっぽっちもなかった。

 

結婚して子どもが生まれて、生きていきたいと思った。自分が死んだとしても、子どもが生きていける世界が続いていってほしいと思った。自分勝手、ですね。

燃え殻「ボクたちはみんな大人になれなかった」

 

ボクたちはみんな大人になれなかった (新潮文庫)

ボクたちはみんな大人になれなかった (新潮文庫)

  • 作者:燃え殻
  • 発売日: 2018/11/28
  • メディア: 文庫
 

 

美しかった90年代に生きられたひとのことを、僕はいつも羨ましく思うけれど、それは青い芝生を見ているのと同じ単純な話で、10年単位で何回も何回も繰り返されてきたことなんだろうな。そして「あの頃はよかった」なんてカビの生えたフレーズを使わずとも、10年来の友だちと酒場でクダを巻きながら、話したくもないのに話してしまうのも、きっといつもどこでも繰り返されてきた、と思いたい。

 

それは別に今がクソだからじゃない、明らかにうまくいかなかったこと、失敗したことは10年くらい経てばある程度は客観視できるようになって、贅肉みたいについた、若い時とは種類の違う根拠のない自信、いや、傲慢さが、「今ならもっとうまくやってみせる」なんてバカなことを思わせる。「もしも、間違いに気がつくことがなかったのなら?」戻れないことについて、思い出して涙を流すくらいにセンチメントを保っていれた方が、本当は何十倍もマシな人間なのかも。

 

この小説(でいいんだよね、たぶん)を読んだとき、ヒロインの1人の「カオリ」の描写にとてもびくっとした、というか、古傷を抉られた感覚があった。僕は10代の終わりから20代のはじめくらい、根拠のない自信はものすごくあって、それと同時に根拠なく全く自信がなかった、文章で読むと何を言ってるのかわからないと思うけれど、本当にそういうことがあるのだ。そういう自己表現欲にまみれている人間にとって、他者からの評価、肯定というのはものすごくかけがえのないものだった(僕自身、前身となるブログにもらったコメントで嬉しかったものは今でも覚えている)。それが、価値観(好きなもの、嫌いなもの程度かもしれないが)の似通っている、現実の異性ならなおさらだ。

君の書く文章が好き、君の歌声が好き、君の曲が好き。それは、見た目がかっこいいとかおしゃれだとか、そういったものよりも一段階高い、「本当の自分」(この後に及んでこんな言葉を使いたくなかった。。。)を評価されているように思えて、とても嬉しかった。もっと言うならば、生きていていいんだ、と言われたような気がしていた。

 

まあ、たらたらと書いたけれど、僕も似たような体験をしたということだ。僕は学生だったけどね。

年何回したかわからないセックス(1日1回以上として、、、あまり数えたくないな)、好きな音楽や映画の話を振ればすぐに話が通じる相手がいるという嬉しさ、存在そのものを認められている気がしていた、まあ、相手にとってもきっとそうだったんだと思う。

 

すっかり東京も僕も様変わりして、時代は流れて、あの頃いた人たちはしばらく会っていない人の方が多い。死んでしまったやつも何人かいる。僕はまだしぶとく生きているし、彼女たちもたぶん、まだこれからも生きていくだろう。

 

大人になる、ということが未だにはっきりわかっていない、結婚したり子どもができたから大人になるわけでもないし、ましてや20歳になったから大人になったわけでもないだろう。

感傷を立派に振り切れるようになったら大人か?

 

そういう意味では、僕も大人になれなかったひとりなんだろう、いや、そのひとりでありたいと思う。

心機一転

さて、いろいろ物騒なことも書いてあったかもしれませんが、まあまあ、忘れて、忘れて。

普通の日記と、本と音楽と映画と生活のことだけに戻ろうかな、と思います。

 

まあ、人生はあまりにも長すぎますし、かといってここでドロップアウトするには失ったものが多すぎます。

せめてもう少しは取り戻さないと、成仏できない気がする。…「損切り」って言葉もありますけどね。

 

前から読んでたひとはお久しぶりです、元気してましたか?

僕の方は人生がわりと二転三転して、違う景色が見えてきたところです。なんかスピリチュアルな感じがしてやな感じだな。

 

初めましての方は初めまして、筆者の素性はここでは書きませんが、文章を読んでるうちにボロが出てくるところがあると思うので、そういうのが好きなひとはどうぞ。

 

まあ、マイペースに書いていきます。恥ずかしながら戻ってまいりましたが、また、よろしくお願いしますね。